高野紙の歴史
大同元年(806)
空海が唐より帰国する
寛治2年(1088)
白河上皇の高野参詣登山
建仁元年(1201)
京都の印刷業者である大和屋善七が高野山で開業したという記録が残る


建長3年(1251)
『即身成仏義』開版。最初の高野版とされる
建長5年(1253)
金剛峯寺の阿闍梨快賢により空海の『三教指帰』(さんごうしいき)が印刷される。現存する最古の高野版とされる。需要が急増して紙漉きが盛んになる
応安7年(1374)~康応元年(1389)
『弘法大師行状絵詞』が製作される。白河上皇の高野参詣の様子と、道中の高野山麓での紙漉き風景が描かれる。紙漉きを描いた図では最も古いものとされる



1300年代後期以降
高野紙の質が低下したとされる
永正18年(1521)
高野山で古板木の大半を焼失し、出版活動が衰退していく
安永6年(1777)
『新撰紙鑑』が発行される。高野紙「細川」の寸法あり
天保年間(1831~1845)
この時期に作られた『紀伊続風土記』には、「細川奉書」が細川で漉かれていたことが記される
江戸時代後期~昭和15年(1940)
江戸後期から明治期にかけて最盛期を迎えた紙漉きは、減少の一途を辿り、昭和15年(1940)には100軒を切り、昭和32年(1957)には20軒ほどとなる
昭和51年(1976)
この頃には、高野十郷で紙漉きを行うのは中坊家1軒のみとなっていた
昭和53年(1978)
埼玉県小川町・東秩父村の細川紙が国の重要無形文化財に指定される
関東の細川紙のルーツが高野町細川にあると周知される
昭和59年(1984)
中坊君子氏が和歌山県名匠表彰「高野紙製作」を受賞する
平成11年(1999)
九度山町に紀州高野紙伝承体験資料館紙遊苑が開館する
平成16年(2004)
西細川活性化実行委員会(西細川APC)が高野町細川(西細川)の地域の活性化や道の保全、環境整備に寄与することを目的に設立される
平成17年(2005)
高野町立西細川小学校が廃校となる
平成17年(2005)
この年を最後に唯一の高野紙の漉き手だった中坊佳代子氏が紙漉きの仕事を終える
平成19年(2007)
中坊佳代子氏より、高野紙を漉く道具一式を高野町細川の旧西細川小学校に譲り受け継承する
平成25年(2013)
旧西細川小学校での「和紙の会」が始まる
平成26年(2014)
「和紙…日本の手漉き和紙技術(石州半紙、本美濃紙、細川紙)」がユネスコの無形文化遺産に登録される
令和5年(2023)
中坊佳代子氏が逝去される
高野細川紙研究会の沿革
平成27年(2015)
高野細川紙研究会が発足する
平成27年(2015)
高野町民文化祭にて展示
(西細川活性化実行委員会とともに、高野町民文化祭にて毎年紙の展示をしています。)
平成27年(2015)
『国保和歌山』にて紹介される
平成28年(2016)
高野細川紙研究会 会報 第1号発行
平成28年(2016)
和歌山・紀北10社寺御朱印めぐりの御朱印用紙を製作
平成28年(2016)
広報誌『和歌山県民の友』にて紹介される
平成29年(2017)
高野細川紙研究会 会報 第2号発行
平成29年(2017)
高野町民文化祭にて展示
平成29年(2017)
高野山ギャラリーで高野版について紹介する
平成30年(2018)
高野細川紙研究会 会報 第3号発行
平成30年(2018)
高野町民文化祭にて展示
令和元年(2019)
水とみどりの美術館にて展示
令和元年(2019)
堺市博物館で「和紙文化への招待―日本の手漉和紙技術の現在―」が開催され、西細川活性化実行委員会(西細川APC)と高野細川紙研究会が協力し、高野紙の伝統が紹介される
令和元年(2019)
高野細川紙研究会 会報 第4号発行
令和元年(2019)
高野町民文化祭にて展示
令和2年(2020)
高野細川紙研究会 会報 第5号発行
令和2年(2020)
プレミア和歌山より取材を受ける
令和2年(2020)
南海100駅のひとつ「紀伊細川駅」にてNattsに紹介される
令和3年(2021)
高野細川紙研究会 会報 第6号発行
令和3年(2021)
毎日新聞にて紹介される
令和4年(2022)
高野細川紙研究会 会報 第7号発行
令和4年(2022)
読売新聞にて紹介される
令和5年(2023)
日経新聞にて紹介される
令和5年(2023)
高野細川紙研究会 会報 第8号発行
令和5年(2023)
渋沢栄一記念財団「青淵」寄稿
令和6年(2024)
高野細川紙研究会ホームページ開設

