高野紙は、高野山から細川を経て南北に流れる不動谷川の水を用いて、平安時代ごろから漉かれてきた和紙です。
高野山麓の村々では、田んぼの畦や家屋の裏に紙の原料である楮(こうぞ)を植え、紙漉きを農閑期の仕事としていました。高野町域と九度山町域にわたる西郷・東郷・河根(繁野)・椎出・笠木・下古沢・中古沢・上古沢・西細川・東細川(裏神谷、池の峯)が「高野十郷(こうやじゅうごう)」といわれる村で、紙漉きえびす講という同業組合が組まれていたほど紙漉きが盛んに行われていました。

高野紙は、『紀伊続風土記』に「生漉にて虫いらす、水に入りて破れす、墨附きはあらされとも、力は甚強し」と記され、力強い紙として知られていました。
平安〜室町時代にかけては高野山での書写や印刷(高野版)に主に使用されていましたが、江戸時代には次第紙(しだいがみ=経文や諸文書など書写用に使われる上質の紙)の他に傘紙、障子紙、紙子(紙衣)などにも用いられるようになります。

高野紙は、高野山で採取した萱(ススキ(薄))で作った簀(萱簀(かやす))と、中世の技法の名残が見られる独特な製法を用いて漉かれています。漉いた紙は圧搾せずに板干し乾燥され、厚みのある紙の表面には萱の跡が残ります。
またこの高野紙は、国の重要無形文化財に指定されている「細川紙」(埼玉県小川町)のルーツとされています。
近年、漉き手や需要の減少によって高野紙の存続が危ぶまれ、紙漉き職人も九度山町の中坊家の一軒のみとなりました。

「和紙の会」主宰・「高野細川紙研究会」代表を務める飯野は、たったひとりとなった紙漉き職人中坊佳代子氏が廃業を決める5・6年前に出会い、高野紙の魅力に惹かれて中坊氏の紙漉きを学んできました。中坊氏の引退後は、かつての「高野十郷」の村のひとつである高野町大字細川の旧西細川小学校を拠点とし、西細川活性化実行委員会(西細川APC)の協力のもと、古来と変わらぬ製法で紙を漉いています。
高野細川紙研究会は、高野紙全般についての歴史的研究や漉き方の研究、楮などの繊維研究、トロロアオイやノリウツギなどの材料研究などを行うことを目的とした団体です。「和紙の会」に参加していたメンバーを中心に平成27年(2015)、8名を発起人として発会しました。高野十郷のそれぞれの村で漉かれていた高野紙「古沢」や高野紙「細川」の技術習得にも励んでいます。
